Vol.10(BGF/SPG 一連変化(EN/高さ) 長野編)2016.2
ブロックガードシステム協会の山岸由美です。
年始からの温暖な気候から一転、沖縄本島や奄美から雪の便りが届くほど日本列島は最大級の寒波に見舞われました。また例年より遅れてインフルエンザが蔓延しています。皆様体調にはくれぐれもお気を付けください。
しかし暦の上では立春も過ぎました。厳しい寒さもあと一息です!
今月は”落石条件・防護柵高さも現場に合わせて自由自在” 実績の多い長野県から一連202mの現場を紹介します。
長野県と言えば、今年から始まった”NHK大河ドラマ「真田丸」”ですね!視聴率20%台と好調なスタートとなりましたが、ご当地長野県での視聴率は30%越えと大盛り上がりのようです。
写真は真田信繁(幸村)の父昌幸が築いた”上田城”の櫓門・北櫓・真田石と、川中島の合戦の際、武田信玄の命により築城され当時は海津城と呼ばれた”松代城”です。ともに”日本100名城”に選ばれています。
関ヶ原の戦いの際、真田昌幸は次男信繁と石田三成らが率いる西軍に、長男信幸(信之)は徳川家康率いる東軍について戦います。これは信幸の正妻が徳川四天王の本田忠勝の娘(家康の養女)、信繁の正妻が石田三成の刎頚の友、大谷吉継(刑部)の娘という東西それぞれに義理があったため、またどちらが勝っても真田家を存続させる”大義”があったとも伝えられています。
上田城を中心に繰り広げられた上田合戦は、地の利を生かした作戦により第1次・第2次共に小さな真田軍が巨大な徳川軍を撃退し、堅守したことで有名です。また二代将軍秀忠は上田攻めにてこづり関ヶ原の戦いに遅参したとも言われています。
海津城は、真田信幸が上田(沼田)から移封され初代松代藩主となり松代城と呼ばれました。以来松代藩10万石は幕末まで城下町として発展しました。
そして長野県のソウルフード、名物”おやき”。特に野沢菜がお勧めですョ!
B: 堅守・上田城! 堅守・ブロックガード!おぉ~似てるぞ!!
G: それより、一家親兄弟が西軍東軍別れても”大義”を守った真田!と、一連の中で落石エネルギーや高さが自由自在で人命を守るブロックガード!こっちの方が似てるよね?!由美さん?
S: (う~ん・・・?かなり無理があるような気がするんだけど?まぁいっか、ここはノリで!)似てる!似てるわよね!ブロックガードには「人命・財産」、真田には「義理と一族の存続」を守る”大義”があるものね!
B: 難しいことわからないけど~まぁそんな感じ!でもさ、今回の長野の設計なんて簡単なんでしょ?
S: 何言ってるの!設計や製作はとっても大変なのよ!!
G: なんで?(?_?)
S: たとえば柵高3mと4mとでは標準仕様ではロープの位置が違ってくるのよ。だから設計はすべてオーダーメイド。現場に合わせて細かくカスタマイズしてるのよ!
G: そうなんだ!さすがだね!ちなみにどんなメリットがあるの?
S: そうね、この場合は一連にすることで支柱やボーリングの数を減らせるし緩衝機構の数も少なくなるから断然経済的になるわね!そんな細かいところまで考えて設計できるのは、多機能なブロックガードだからこそなせる業ってことなのよ!でもそれだけ設計や製作の人の苦労も大きいってことも覚えておいてね、お二人とも!
G: は~い! 了解!
B: ・・・り゛ょーがい・・・モグモグ・・・うんめぇ~!
G : おい!勝手にお土産の”おやき”食べるなよ~!
S : ちょっと~!私の野沢菜残しておいてよぉ!
202mという長い延長の中で、落石エネルギーや柵高が違う箇所がありました。ここをどのように計画したのか…
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